宮澤笛今昔記 第3話

管体製作

私は学生時代に吹奏楽をやっていた関係から、就職に関して当時の指導者より日本管楽器株式会社(現ヤマハ)を紹介され入社しました。

当時の日本管楽器工場は東京都板橋区にあり、ピッコロからスーザホンまで全ての管楽器を製造し、社員数は約600人程でありました。

私は営業部修理サービス課に配属され、製品のクレーム処理及び一般修理品の取り扱いをしていて、その関係からほぼ毎日製造現場に行き各々の製造関係者と打ち合わせをするのが日課でありました。

そのような環境からフルートの製造工程は毎日見ていたので、ミヤザワフルートの創業時に特段の心配はありませんでしたが、いざ自分の手を汚してフルートを作る段階になり驚いたのは
「見た目と実際は余りにも違う」
という事であります。
つまり、創業当初の私は余りにも未熟で甘い考えであったということで、今46年前を振り返ると大変恥ずかしく、自分の甘さに驚くばかりです。

フルート製造の第一歩はフルートの管を作る事ですが、日本管楽器時代現場を見ていると余りにも簡単にトーンホール(音の出る部分)が出来ていたので、さほど大変とは思わず作業を開始しました。
ところが、トーンホールを引き上げてみると見事に先端が割れてしまい、1日が過ぎ1週間が過ぎても16個のトーンホールは出来ませんでした。
元々製造技術者でない私はこの理由が解らず悩んだ末、日本管楽器の大先輩である久藏菊雄氏(当時三響フルート製作所社長)に電話しご指導を仰いだところ、大変親切に基本を教えて頂きましたが、これが機会となり以来40余年に渡り久藏大先輩とは特段のお付き合いを頂き、終生忘れる事の出来ないご厚情を賜りました。

以後46年間経過した現在、苦労したトーンホール製作は全く順調で当時から想像すると夢のようです。
管体作りで得た教訓は
「自分で苦労する事で人の苦労を知る」
という事です。

ミヤザワフルート創業者 宮澤 正